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自叙伝

※長いですが、読んでいただけたら幸いです。

 1992年5月6日生まれ。AB型。5人兄妹末っ子だが、上3人と下2人の異母兄弟。

 上から兄姉兄、姉私。

 幼い頃実家は住宅ローンを支払っている上に、異母兄弟の金銭問題等があったために、両親はよく喧嘩をして物が飛び交うこともあった。すると泣いている私をすぐ上の姉がなでながら慰めつつよく寝かしつけてくれていた。

 私は小学校3年間いじめから不登校気味になった。ある日私はふと思った。「こんなにいじめられるということは、私はみんなにとって邪魔な存在なのかも。私がいる意味ってないんじゃないか」と。これを母親にふと話したことがある。そうすると母親は、「人は生まれてきたことに意味があるの。みんな人の役に立つために生まれてきてるの。今はまだわからないかもしれないけど、将来大人になったら絶対に人の役に立つ時が来るよ。今はわからなくても、ママはあなたがいてくれるだけでうれしいから、今はママの役に立ってるね。あなたはお父さんとお母さんに「幸福」を運んできてくれているよ。」と話してくれた。

 そんな母親だったが、睡眠時間を削った多忙な日々とストレスからうつ病を発症し倒れた。高校受験直前の冬の出来事、頼りの姉は大学へ進学していてもう家にはいなかった。

 私は高校生の時も部活でいじめやネットの書き込みがあり保健室登校をしていた時期があった。この時は担任の先生に助けられ何とか乗り越えることができた。

 高校卒業後は、実家の金銭事情が厳しいために全寮制無償の大学へ入学。しかしそこでもいじめを受ける。成績は不良だったが看護資格を取得し無事に卒業。

 就職してすぐにパワハラにあいうつ病発症。体重10キロ減少、人に会うのも怖く、職場の人に見られるのも嫌で、外に出るだけで怖くて、母親に何度も「大丈夫だよ」と言ってもらいながら泣きながら玄関を出たり入ったりしていた。

 退職後体調を戻したのち再就職したが、トラウマから陰口を言われているような気がしたり、なかなか先輩方と話せず毎日影や家で泣いていた。

 その頃知り合った友達がいた。その友達は、外を歩くときにびくびくしたりマイナス発言が多い私に、「プラスな言葉を使いなさい。お前は何も悪くない。お前はいい子だから大丈夫。堂堂と歩きなさい。」と何年もかけて会うたびにいつも強く言ってくれていた。今ではもう約5年の付き合いになる。この時期にこの友人がそばにいたから今の自分があると思う。

 このころ母親が重症筋無力症となり入院治療が必要となったため、両親は泣く泣く家業を廃業した。そこで看護師のほかにもリラクゼーションを副業として仕事をはじめ、生活費の足しにと母にわずかではあるが仕送りをした。

 

ほかにも多くのことがあるが多すぎるため割愛。

 

 生まれてずっと人間関係・メンタル、いろんなことに悩んできた分、人として人にやさしくありたいと思い、患者様の精神に寄り添える看護師を目指そうと思い行動してきた。しかし、思いは強くともキャリアがないこと・年齢が若いこと等、なかなか仕事の中でかなわない部分も多くずっとジレンマを抱えていた。そんな時、リラクでいろんな職種のいろんな方と出会い、自分がやっていきたい人の心身に寄り添える仕事は看護師だけじゃない、看護師じゃなくてもいいんだと思った。昔ハラスメントを受けたことであったり、職場ではキャリアや年功序列で言いたいことややりたいことが誰しもがなかなか言えない環境であったり。すべてを含め、自分で人に寄り添える事業を立ち上げ、みんなが楽しく切磋琢磨しあえるような環境を作ってしまえばいいんだ!と思いつき、看護師を退職し、人のメンタルにゆっくり寄り添える事業を起こしたいと思い行動を始めた。

 嫌だったこと・辛かったこと・悔しかったこと、みんなそれぞれいろいろなことがあるけれども、それがなければ人は人を想うことはできないと思う。そして今の自分はないと思う。負けず・努力を忘れず、何事にも学びがあること、感謝をすることで人はいくらでも変われて、素敵な人生を歩めると思う。

​ 今の自分があるのは今までのすべての人・経験のおかげ。

 両親に、環境に、みんなに、いつも感謝しております。

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